見田宗介『現代社会の理論−情報化・消費化社会の現在と未来−』(岩波新書)

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インターネットが一般に普及したのは1995年。
この年はWindows95が発売され、一般家庭にようやくインターネットの存在が知られるようになった頃である。

それ以前の「パソコン通信」時代に比べると、使いやすさ・利便性が格段に変化した時である。

インターネットの可能性と恐怖を扱った映画『ザ・インターネット』も、1995年の上映。
この時代は、専門家のものだったインターネットが「ふつうの人」に扱えるようになったギリギリの時代である。

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本書『現代社会の理論』は、1996年の出版。

インターネットによる情報革命の初期の著作である。

そのため、素朴な形での「情報化社会」の可能性を描いている。
それがいまの我々からすると逆に新鮮である。

見田宗介は現代の社会はガルブレイスのいう「ゆたかな社会」となった、と言及する。
「ゆたかな社会」はこれまでの消費社会のあり方とは異なる。
「喰うものがないから喰う」「着るものがないから服を買う」のではなく、「流行り(=モード)だから服を買う」という消費社会である。

この社会では、常にモノを生産し続けることとなり、地球の有限な資源がどんどん消費されていく。
経済成長とはいうものの、資源がなくなっていく点で「成長の限界」を迎えることとなる。

見田宗介は、資源を消費する「モノ」ではなく、「情報」に注目する。
情報により、人間がミニマムに幸せを実感できる社会として「情報化社会」を想像しているのである。

 子どもは成長しなければならないけれども、成長したあとも成長が止まらないことは危|険な兆候であり、無限に成長しつづけることは奇形にほかならない。まして成長しつづけなければ生存しつづけられないという体質は、死に至る病というほかはない。
成長したあとも成長しつづけることが健康なのは、「非物質的」な諸次元−−知性や感性や魂の深さのような次元だけである。社会というシステムに対応を求めるならば、この広義の〈情報〉の領域というコンセプトによって、今日とりあえずその名を与えられている諸次元だけである。「情報化社会」の理論のうちのこの大きい射程をもった発想がわれわれの前に開いているのは、社会のシステムの、〈成長のあとの成長〉の可能性についての、このような見晴らしであるように思われる。(162-163)

 

「成長のあとの成長」の鍵が情報化社会である。
実際、見田の主張はこのあとの「IT革命」「携帯電話・スマホの普及」によって一部達成している。

「情報化」により、例えばネットからの収益で生活をできる人びと(アフィリエイター、デイトレーダーなども含む)を生み出したのは、まさにその一例である。

でも、それでよかったの?
見田の主張は、情報化により人間の「幸福」が達成される点を指摘している。
現実にインターネットは人に「幸福」を実感できるようにしたのだろうか?

本書のラストにおいて見田は物質的(マテリアル)なものに付随する「消費」を、「情報化」が乗り越えていき、物質的豊かさを超えた豊かさを我々に与えてくれる可能性を示唆する。

 「情報化社会」というシステムと思想に正しさの根拠があるのは、それがわれわれを、マテリアルな消費に依存する価値と幸福のイメージから自由にしてくれる限りにおいてであった。〈情報〉のコンセプトを徹底してゆけば、それはわれわれを、あらゆる種類の物質主義的な幸福の彼方にあるものに向かって解き放ってくれる。
けれども消費の観念は未だ、現在のところ、情報というコンセプトの透徹がわれわれを解き放ってくれる以前の、マテリアルな消費に依存する幸福のイメージに拘束されている。
われわれはなお〈情報化/消費化社会〉の、過渡的な、矛盾にみちた入口に立っている|ということができる。(170-171)

見田の夢見た「情報化社会」は、IT革命・スマホなどにより、すでに到来している。
しかし、物質的な「消費」の次元は未だに超えられていない。

逆に言えば、見田のいう「情報化社会」は未だに到達していない「見果てぬ夢」ということができる。

IT革命もWeb2.0も死語になった現在。
今一度見田の「夢」を見ていくことに、情報化社会の次なるヒントがあるかも知れない。Z

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