自習室の哲学

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自習室に居ると、なぜか勉強が進むのはなぜだろう。
高校時代、よく学校の自習室に行っていた。

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図書館だと、「本」の誘惑がある。
家では「布団」の誘惑がある。

そんなわけで、自習室のカビ臭い香りを嗅ぎながら勉強をしていたものだった。

昔から私は一人だけではあまり勉強する気が起きなかった。
でも、近くに誰かが勉強している自習室では学習が進んでいた。

最近には「有料自習室」も多く存在しており、「月8000円で使い放題」というところもある。

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社会人になってからも自習室は求められている。

なぜ、一人では学習は進まないのだろう?
なぜ、近くに勉強している人がいると学習が進むのだろう?

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私がよく言う話だが、勉強の困難さは「インプットと結果が出るまでの期間の長さ」によって起こる。

英語を勉強した翌日、英語がペラペラになっていれば誰でも英語を勉強する。
漢字を1日でも勉強しないと、翌日漢字が書けなくなっているのなら、誰でも漢字を学習する。

なぜか?
それは「インプットと結果が出るまでの期間の長さ」が短いからだ。

1日真剣に勉強しても、結果が出るのは先である。
手応えがない。
そのため、「まあ勉強しなくてもいいか」となっていく(行動分析学)。

一人では学習が進まないのは、一人で学習するよりも遊んだり寝たりするほうが楽だからである。

「自習室」は、そこに「ただ近くで勉強している他者」を与えてくれる。

一人で勉強することはつまらない。
しかし、他者がいることで「自分はこれでいいのか」という視点が入る。

自習室でただ他者が近くにいる(=共在状況)ことにより、視点がメタ的になるのである。

自習室で勉強が進むのは、自分をより高い場所から見つめた「メタ視点」が提供されるためである。

他者がただいる。
それだけで人はメタ視点が内包される。

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自習室はそんなことを教えてくれる。

 

 

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