主人公ジョーのもとには、30年後の世界の人間が「殺したい」相手が送り込まれる。
懐中時計を見て、決められた時間・場所に送り込まれる相手を単調に撃っていく。
そんな仕事。
30年後の未来は犯罪捜査が発展し、死体を見ると犯人がわかるようになるという。
だからこそ、殺害を過去に「アウトソーシング」するのだ。
この「アウトソーシング」先の職業を「ルーパー」という。
〈ループ〉してきた相手を撃ち殺すからだ。
ルーパーたちには「引退」がある。
30年後も自分が生きている場合、いつの日か自分で未来の自分を撃ち殺すこととなる。
この場合、「ループを閉じる」と呼んでいる。
ある時、ジョーもついにその「ループを閉じる」日がやってくる。
しかし、ジョーは撃ちそびれる。
組織からの追求を逃れるため、ジョーは未来の自分を殺害を決意、探しまわっていく…。
この映画のテーマは文字通り「ループ」である。
幼少期の虐待や「捨てられた」経験および生育環境。
これがその少年がおとなになった時、犯罪者になる・ならないを決める重要な「独立変数」となる。
要は、幼少期の生育環境こそがその人物の行末を決めるのだ。
親から虐待や「捨てられた」子どもは愛し方を知らない。
その結果、彼らは自分の子どもたちにも同じような接し方をしてしまう。
そういう意味で、子育ては「ループ」している。
この映画の裏テーマはこの「ループ」をいかに断ち切るか、にある。
その断ち切り方をここでは描かないが、1つの「贈与」としての「死」が「ループ」を断ち切ることとなっている。
子育てには「贈与」としての「犠牲」が必要な側面があるのである。
この映画を教育学的に見ることは非常に意味があるだろう。
子どもの持つ暴力性が、「超能力」として現れ、その能力を制御するために親の教育が必要である、と整理することが出来る。
…ただ、見終わった後冷静に考えると、「じゃあ、あれは誰が殺したことになるんだろう?」という、タイムトラベル系映画定番の疑問が頭から離れない。