本書は、いわば大きな「挑戦の」書である。
つまり、「教員は自分の知らないことを教えることが出来るか」という問いなのだ。
著者・ランシエールの参照する学者・ジャコトによれば「可能だ」という。
ジャコトは自身がオランダ語が分からない中、
オランダ人にフランス語対訳の「テレマックの冒険」という小説を渡す。
学生たちは自分の力でフランス語の読み書きの力をみるみる獲得して「しまう」。
そこからの確信が、ジャコトの「可能だ」という認識につながっている。
「生徒を解放すれば、つまり生徒自身の知性を用いるように強いれば、自分の知らないことを教えられるのだ。教師とは、知性が己自身にとって欠くことのできないものとならなければ出られないような任意の円環に、知性を閉じ込める者なのである。無知な者を解放するには、自分自身が解放されていること、すなわち人間精神の本当の力を自覚していることが必要であり、またそれで十分なのだ。無知な者は、教師が彼にはそれができると信じ、彼が自分の能力を発揮するように強いれば、教師が知らないことを独りで習得できる」(22)
この確信を支えるのが、ジャコトから得たランシエールの人間観である。
「人間は知性を従えた意志である」(77)
ある意味、昔読んだ内田樹の『先生はえらい』に近い。
つまり、「いい教師だからいい教育ができるわけではない」というテーゼを伝えている点だ。
内田の『先生はえらい』は、学ぶ側の思いがあれば、教員の教えていないことすら学習することが出来ることを示している。
ジャック・ランシエールも、ジャコトを通じて伝えているのである。