エドワード・レルフ『場所の現象学−−没場所性を越えて』ちくま学芸文庫, 1999。

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修士論文の1つの章で「居場所」論を検討をした私にとって、
人間における「場所」の意味合いは興味の対象である。

フリースクールでは「居場所」が多く語られる。

その人物が、ホッと一息できる場所。
自分に戻れる場所。
あるいは自分を回復できる場所。

そのため、フリースクール校には
居場所空間を意味することばを名前に持つ物が多くある。

たとえば「ハッピービバーク」や
「たまリバー」などなど。
(研究している人はいないけど)。

落ち着ける場所の大切さを、フリースクールや通信制高校の名前として
使っているわけである。

人間は空間から多くのメッセージを受け取る。
広大な空間では雄大さや孤独さを、
狭い部屋では落ち着きと鬱屈さを、
それぞれ無意識のうちに受け取っている。

そういった空間や「場所」の持つ意味合いを、
レルフはハイデガーの理論を批判的に参照しつつ、
説明していく。

「明らかに私たちのだれにも、黙想するために引きこもることのできるプライベートな場所がある。とくに子供にとっては、そうした場所は自己を発見するための根拠地となるし、洞窟、樹木、あるいは家のなかの片隅さえもが「ぼくの場所」として主張されることもあろう」(49)

私にとっての「ぼくの場所」とはどこだろう、と
ふと思う。

シェアハウスという公共空間に住むものとして、
シェアハウスは間違いなく「ぼくの場所」だ。

自室も「ぼくの場所」である。

では、職場はどうか?
職場は職場としての「メッセージ」を持つ。
けれど職場に生徒と接する側にいる時、
「ぼく」というよりも「教員」の役割を
わたしは演じることになる。

そのことに気安さを感じる反面、
「役割」を演じていることを実感することも多い。

「役割」を気にしなくてもいい空間。
それが「居場所」なのであろう。

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