本を読むという、「主体」の行為

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 本を読むとき、私は本の「装飾」をはぎ取る(=stripping)。本のカバー、帯(まさに裸にしているわけだ)、「愛読者カード」や新刊紹介文を投げ捨て・打ち破り・テープで本にとめている。
 いわば、食材たる本を消化可能な状態にまで下ごしらえをするわけだ。松岡正剛が本年(2010年)11月の「週刊読書人」インタビューで書いていたが、本を読むのはグルメや映画・演劇同様の行為である。後生大事に本を扱うのでなく、本をエンタテイメントとして享受可能な状態にまで変化(=メタモルフォーゼ)させる必要があるのである。
 私は本を「他者」の比喩で扱っている。他者を理解可能な形態にまで変形あるいは変化させるわけだ。これは通常、主体である「私」の変容モデルにおいて示すこともできるが、本においては「他者」自体の変容モデルでいうことができる。松岡がいうのは読書行為における「編集」作業の重要性である。本のカバーを捨てるのも、松岡のいう「編集」である。
 他者を理解可能な形態に変形させることは、「オリエンタリズム」(サイード)でもある。理解不可能な形態であったものを、「私」という主体が理解可能な状態にすることになるわけであるためだ。しかし、読書行為についてまでオリエンタリズムを敷衍させることは無理があるだろう。
 書籍はいわば「恋人」である。肝心な部分は装いに隠され、「主体」が少しずつ核心に近づいていくしかない。他者たる書物は「謎」めいた主体でもある。strippingする「楽しみ」は「恋人」にもあるし、「書籍」にもあると言えるであろう。このことを「まどろっこしい」と感じるか、「楽しい」と感じるかで、本を恋人にできるか否かが決まってくる。

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