授業中の内職の持つ意味 軽い考察

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 Second bestとしての内職。授業中に「内職」によって学習を行うということは、自習室で学ぶよりも恐らく困難な行為であると考えられる。内職に関するアンケート調査より、教員に隠れて行われる内職が多く存在することが読み取れるためだ。人間の集中する能力から考えると、内職は一人で学習するよりも困難になる。
 しかし、内職は現になされている。教室から出て行き、別の場所で学習をする選択はあまり取られていない。それは内職という次善の策で納得/満足するようになっているからだ。竹内の図式で言うと縮小cooling-downになる。
 内職は自発的にやるものであると言うことは、アテネ(2001)に現れている。授業が自分に役に立たないと認識される場合、授業時間と授業空間を有効に活用するために生徒は内職を行う。これは自発的である分、自らが選択したことになり次善の策であっても納得をせざるを得なくなる。次善を選ぶという縮小作用は能動性が伴うからこそ冷却となるのである。なお、この図式は竹内洋が『選抜社会』で記録した内容でもある。納得の構造が内職において成立していると言える。
 生徒が内職を行っても、ゴフマンがいうように最低限の敬意を表していることは否めない。生徒にとってはあくまで授業を乗り越えるため・受験勉強を行うためという選択になるが、教員にとっても内職をされることで少なくとも教授行為自体は成立した構図が維持される。また、受験勉強を進めることになるため学校側も進学実績を入手することができる。内職は教員ー生徒双方に有効な戦略であったのである。

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