ジャン=ルイ・ベドゥアン(1961):斎藤正二訳『仮面の民俗学』、白水社、1963。

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 仮面のもつ意味を「未開社会」のエスノグラフィーから考察する。その知見が現代社会にも通じるものであることを指摘する本。カイヨワの模倣としての「遊び」論も出てくる。『魔女ランダ考』を思い起こした。

「じじつ、われわれは、おそらく、たれしもが、こうした経験をもっているのであり、自分《らしく》もないことをしてしまった、とか、あの人《らしく》もないことをしたものだ、とか、よくそんなことをいったりするのである。こんな場合、これが自分だ、とわれわれが考える、理想像としての似姿は、かならずしも、正真正銘のわれわれの姿なのではない。それは、どこまでも、本当らしく見える姿であるというにすぎないのだ。それは、いうならば、《仮面》なのであって、その裏に隠れて、われわれは、他人の目にたいしてはもちろんのこと、自分自身の目にたいしても、われとみずからを偽装するのである。なぜなら、われわれは、こっちでそれに独立したというに近い存在を与えてやっているはずの、ある一つの影像、ある一つのまぼろしを、さも自分自身であるかのように、思い込みがちなものであるからだ。そういう場合は、われわれが考えているよりも、はるかに多いのである。」(15)
→「ほんとうの私」という存在は「仮面」である。「自己」はミード的にはIとmeとの恒常的な自己との相互作用である。「ほんとうの私」というmeは数あるmeの一つにすぎない。
 「よくある」言い方をするならば、パーソナリティの語源はペルソナ(仮面)にある、という事実につながる話である。

「仮面の場合には、ひとは、《他者》になろうとして、本当に《他者》になってしまうのだ。《他者》とは、それがすべての風貌を帯びうるゆえに、風貌をもたない者でもある。この矛盾を克服することこそ、仮面の仮面たる特質である。」(22)

「だれであり、仮面をつけた人物は、たんに、何者であるかがわからなくなった人物ではないからである。かれは、それ以上のものである。かれは、むしろ、他者でさえある。というのは、かれは、おのれを謎として呈示し、ひとにむかっては、その謎を解くように要求するのだから。したがって、かれは、あたりまえの法則からははみ出し、自由を要求しているわけだ。この自由は、しばらくの間にもせよ、社会の約束事によって制限を受けることがなくなるので、そのぶんだけ、ますます大きなものとなる。」(24)

(西欧人について)「仮面の力を借りて、可視的な自然の次元よりも高い次元の世界に、ありありと生きることを断念した人間は、自分の同類の目に、自分を超人として映らせようと努めるようになる。」(96)

「人間というやつは、自分でそうしたいと思うようなときにも、つぎからつぎへと、多数の仮面を発明することをやめるわけのものではない。このことだけは、確かなのだ。われわれの運命というやつが顔をもっていない、という謎あるがために、われわれは、そいつに目鼻立ちを与え、一個の名前を与えないではいられぬのだ。」「われわれが直視することのできない「絶対的な存在」は、人間の「仮面」を帯びた。」(139)
→よく分からない存在に名前をつけると言う行為は、その対象を理解可能なレベルにまで引き下げる働きをする。仮面にもそんな意味合いが込められている。

●訳者追い書き
「著者は、キリスト教によって西欧社会から駆逐された仮面が、ヨーロッパ各国の民間伝承のなかで、かすかに生き残っていることを認めたうえで、もはや、別の世界に属するより仕方ない、といいます。つまり、二十世紀の人間は、別種の仮面を発明しつつあるのだ、といいいます」(141)

・142頁にて訳者が、日本の案山子(かかし)は元々仮面に起源があるのではないかと指摘をしている。

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