Simmel, Georg(1890):石川晃弘・鈴木春男訳「社会的分化論 社会学的・心理学的研究」、『世界の名著47 デュルケーム ジンメル』中央公論社、1968。

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 ジンメル32歳の作品。

 解説から、ジンメルの本書での言及として次の部分があった。

「集団の社会的水準の平均化は、原始的な段階では、低いものを高めることによって可能とされるが、進化した段階では、逆に高いものを低いところに引き下げることによって実現される」(45)

 個々人で会うと徳が高い人物であっても、集団になると途端に低俗な話をし始める。これはいかなることなのだろうか。それは平均化と平等が理由であるという。

 以下は抜粋。

「あらゆる対象について、それらが少なくとも相対的に客観的な単一体であるといえるのは、それらの各部分に相互作用が存在したときのみである」(392)
→人びとの心的相互作用によって、社会は成立する。後の相互作用論者に繋がる発想である。

「社会という名称は、たんにそれらの相互作用の合計にたいするものであって、それらの相互作用が確立されている程度に応じてのみ使用されるべきものである。ゆえに、社会は実体的に確立された概念ではなくて、与えられた個々人のあいだに存在する相互作用の数と緊密の度合に応じて、多くも少なくも適用されうる程度的概念なのである」(393)
→「社会」は相互作用の合計である。客観的存在ではなく、「機能」の総和である。

「けっきょく社会の概念は次のように規定されるであろう。すなわち、個々人の相互作用が、たんに彼らの主観的態度や行為のなかに存在しているというだけではなく、さらに個々の成員からはある程度まで独立した、ある客観的な構成物がつくりだされるというような場合に、われわれは真に社会といえる存在がそこに存在している、といえるのである」「相互作用が凝集して、一つの実体となっているのである」(393)

「集団が大きくなると、それと並行して分化が要求される」(419)

「社会圏が大きくなればなるほど、個人はその目的を達成するために、ますます多くの回り道を必要とするようになる」(419)

「すでにのべたように、個人の罪が社会に転化されるということは、社会教育学にとって、その普及が憂慮される認識の一つである。というのは、それは、個人の罪をどうかすると割り引きやすく、そうしたとき、良心はそれだけ気楽になり、それだけその行為にたいする誘惑が強くなるからである。つまり、いってみれば、道徳のために出費される経費は全体が負担するのに、不道徳によってあがる利益は個人だけが受けるということになるからである」(421-422)
→犯罪者は「社会」や環境が作ったことになる。

「すなわち社会集団の分化と個人の分化は明らかに正反対をなす、ということである。社会集団の分化は、個人ができるだけ一面的になること、彼がある単一の仕事に没頭し、彼の衝動、能力、関心のすべてがこの一つの諧調にあわせられることを意味する」(527)
→集団が多様でいるために、個人には単一・一面的でいることが要請される。これが疎外労働を招くことにもなる。つまり、集団の多様性を担保するため、個人から多様性が排除され単一の状態でいることが要請されるのだ。

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