『蛍雪時代』1947-1948年を読む。

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『蛍雪時代』の「宗教と理性の問題」(1947年12月号2-3頁)が掲載され、受験色というよりは学問的内容も含まれている。そのため、投書欄にも「私は中学生でもなければ勿論女学生でもない。かつての軍需工場の一職工であり、いまさら本誌を見る年令でもないかもしれない」が「文化国の一員としても、自身のためにも学問の必要は勿論感じていたがどうしても実行する気になれず、たゝ”なりゆきにまかせて味気ない家業に機械的に従っているのみだった」(原文は旧字体)との内容がある(1947年7月号57頁「私と蛍雪時代」新潟県 松岡昭三)。「しかし頁を開き目次を見ていささか期待が外れた。私は蛍雪というからには独学指導誌かと思っていたからである」と述べ、「独学指導誌」でなかったけれども本誌に「私の魂をゆさぶるものがあった」、とまとめられている。
 
 原文は以下の通り。

 私は中學生でもなければ勿論女學生でもない。かつての軍需工場の一職工であり、いまさら本誌を見る年令でもないかもしれない。
 工場にあつた頃、仕事の必要にせまられて少しは勉強もしたが、國へ歸つてからはとんと縁が切れてゐた。文化國の一員としても、自身のためにも學問の必要は勿論感じてゐたがどうしても實行する氣になれず、ただなりゆきにまかせて味氣ない家業に機械的に從つてゐるのみだつた。思へば愚かな月日ではある。
 しかし機會は來た。偶々新聞で「螢雪時代」と云ふ雜誌の存在を知り、内容も知らず何でも買つてみろと云ふ氣で注文した。屆いた「螢雪時代」を手にした時、いつも貧弱なものばかり見慣れてゐた目には意外の感があつた。しかし頁を開き目次を見て聊か期待が外れた。私は螢雪と云ふからには獨學指導誌かと思つてゐたからである。
 むさぼるやうに讀み終つて私ははつとためいきをついた。自分が手段として考へてゐた勉強と、本當の學問との隔りに就いてである。そしてじかに私の魂をゆさぶるものがあつたことは忘れることができない。今のところこれ以上の批判をする氣はない。しかし中學生諸君が螢雪時代からはなれられない所以は單なる學習記事ばかりでなく、心の目を開いてくれる何ものかがあるのによるのであらう。
 私はまだ中學生諸君にも及ばない。從つて螢雪時代に親しむ生活はあと何年續くかも知れない。
(1947年7月號57頁「私と螢雪時代」新潟縣 松岡昭三)

 『蛍雪時代』は受験雑誌としての機能以外に、学問に志す人々の公共圏という意味もあった。それは他の投稿頁にも文化国家建設への期待が述べられていることからも読み取ることができる。

 

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